なぜなのだろう、といつも思うのだ。
と言うのも、私は少なくとも世間的に「正しくない」行いは、なにひとつしていないつもりだ。
なのに母親は詐欺に騙され借金を繰り返したし、私は精神を病んで、大学は留年し、新卒就職の道からは逸れてしまった。
少なくとも今まで、所謂「まっとうな」道や行いを歩んでいたつもりである。
学校の規則やルールを違反したこともないし、勉学も怠らなかったし、真面目だったし、「正しい」とされて奨励されるような行いはできる限りしていたし。
それでも、いま私が置かれている状況は、無職の穀潰しとして針のむしろに居て、社会保障のご厄介になっているいわば「社会の悪」だ。
堂々と自分の立場や所属を他人に騙ることはおろか、ただの雑談の中においても、偽りの情報を並べ立てなければ他人と会話することもままならないのである。
常に他人からの後ろ指に怯えながら、嘘偽りを並べる己の罪悪感に苦しまなければならない状況に、自縄自縛の息苦しさにもがき喘いでいる。
なぜだろう。
他人に親切にすれば、ひとの為ならず、己にも還ってくるのではなかったのか。
親切にすれば仇となって、自身の不利益として還ってくる現状はなぜなのか。
数多の何故、が雪崩となって身を押し潰す苦しさ。
生き埋めとなって地上への光も見えず、誰かに見出だしてもらう夢想を抱きながら、いまも暗い土に埋まっている。
ギャップの大きさが引き起こす理想との矛盾
ニート、ひきこもりは多くが「まっすぐなひと」なのだといいます。
純真無垢に、正しい行いがイコールで成功と結び付いていると思っているし、だからこそ、そう順当にいくもんでもない人生とのギャップに大変に苦しむのだそうです。
それとは別に、ニートと言うか生きづらいひと、の共通項として「理想と自信のギャップ」が大きいことが往々にしてあると思っています。
要するに、自分がOKを出せる「自分像」と、それを実行する自分の自信の無さや現状に、とてつもない乖離がある。
そういった乖離の修正には、現状の自分をありのままに受け入れられる土壌が必要だったりはするのだけれど、それ自体、自分に自信がなければ叶わないことであったり。
己の話をするのであれば、私は典型的な「毒親」の下で育っていることもあり、常に「インナー世間」と称される、自身のなかでの「こうでなければならない」という「ねばならない症候群」に苛まれています。
親の強権的な「ねばならない」価値観に従わなければ、見放される、躾として暴力でねじ伏せられる。そんな状況で植え付けられた価値観に、半ば洗脳されているのでしょう。
頭のなかで常に、長年に渡り培われた歪んだ価値観が、「そうなれない自分」を責め続けているのです。
そのような、親の強すぎる価値観に抑圧を受けることであったり、親のご機嫌伺いをしながら生きていた人生が由来し、その完璧すぎる理想像と、それには程遠い自分の現状。
そこに加えて、過去のいじめなどの経験から、自分自身に対する信用も自信も大いに殺がれており、とうてい自信など持てる状況にありません。
そして、過去だけでなく現在進行形で「金銭的に自立できない」現状を社会、身内、そしてインナー世間から責められている状況で、常に生きていることが苦しい「生きづらい」状況に追いやられている、これが今のわたしです。
自分のなかの「ねばならない」価値観によって自縄自縛されることで、どんどん自信は失われ、次のステップに進むことが恐怖に縛られる。そしてまたハードルを越せなかった自分に自信を無くしていくという悪循環を繰り返す。
とはいえ、そんなことを言いつつも、自身は「間違ったことはなにひとつしてこなかった」という自負も抱いていたりして。
これは大変に厄介なことです。
だって、「自分はなにも間違ったことはしてこなかった、正しいことをし続けてきたはずなのに、なにひとつ巧くいかない」という状況は自身の価値観の矛盾を引き起こし、混乱するだけなのだから。
矛盾と混乱、自分自身の中で起こる自負と自信のなさの鬩ぎ合いで八方塞がれて精神が疲弊する。
そんな支離滅裂な状況に立ち尽くし、閉塞感に息喘いでいるのが、私たちの「生きづらさ」の一端ではないでしょうか。
因=果通りになんて行かないのが常
ただ、どうもこの世界は、1に1を足したから2になるようにはできていない、というのが真実なのだ、とは最近ようやく思えてきたのです。
因果応報、なんて教えはあるにはある世の中。
だけれども、じゃあ事故や自然災害の犠牲になるのはすべてが何かに由縁した結果なのか、と言われたらそれは違うでしょう。
何かにこじつけて因と果をイコールづけたくもなりますが、いっそ多くの事象には
「天に果を任せ都度臨機応変に対処」
くらいに思っておくのが、いちばんダメージが少ないです。
まあ、これは「毒親の影響イコール生きづらい私の現状」という事実と矛盾もしているのですが、そもそも親が毒親だった、毒親たる人生を歩んだ人間だったということ自体が「たまたま」とも言えるので。
(もちろん、それは大変最悪の悲劇ではある)
その、たまたまの悲劇から生まれた結果には、都度「じゃあこれからどうしようか」の見直しをするしかないと最近は割り切るようにしています。
もちろん、因果のハッキリした、他人を恨みたくなるような事象もまま起こります。
いじめなんて、因果を遡れば悪はハッキリとしています。いじめた方が悪い。
でも、その原因をまっすぐひとつひとつしらみ潰して正当化していくのか?といわれると、疑問符が浮かぶのです。
その不運に「なぜだ、どうして上手くいかないんだ」と固執して、いつかその不幸がアイデンティティになってしまったら危険です。
「誰それの~のせいで生きづらくて不幸な私」以外の自己紹介が思い付かなくなってしまう。
そんな内々に固執するよりは、自身の世界を拡げて行くように最近気を付けるようにしています。
拡がった体積分、自身を俯瞰するスペースが確保できる。
それが実は、「ありのままの自分の現状を受け入れ」て理想と現実の乖離を擦り合わせる一歩なのじゃないか、と思っていたり。
たしかに、俯瞰しても私の現状なんて幸福かと言われると微妙な顔をするしかありません。
金銭的自立にほど遠く、非正規でも職に就いていれば万々歳、常に向精神薬漬けで、油断をすれば親がいつの間にか借金をこさえてくる、そんな状況です。
正直、ありのままになんて受け入れたくない。
でも、「じゃあ、ここからどうするか」。
軍師のように、自分の現状を地図に拡げて俯瞰し、次の一手を考える。
それには知恵も知識も必要です。
不幸を恨む時間も惜しいくらい、生き残る知恵を身に付けなければいけない。
生き残る知恵を身に付ける時間を確保するには、現状を「たまたま」だと割り切るしかない。
まっすぐに、正しい行いと結果を求める心はいまもある。
理不尽に襲った不運を恨む気持ちもあるし、一足跳びに幸福に恵まれたい。
でも、そんなことを夢見ても無駄という「絶望」を受け入れる。
そこからやっと歩き出せることもあるんだと思います。



