日記生き方

思い込みが招く「選択肢の消失」

生き方

これはきっと美味しくないに違いない → だから食べない に始まり

こんな職業に就いたら、将来が不安定になる → だから就かない とか。


先入観によって、せっかく現れた選択肢のひとつを、無かった事にして、無駄にしてないかという話。
恐らく、経験から来る「美味しそうに見えない」や「こういったキャッチコピーを謳う職場は大概ヤバい」と言った、危機回避としてのスルーなら、おおよそ理解出来る。

けれども、「ネットで言われてたから」とか「親がそう言うから」といった、自身の経験は皆無な中での、思い込みや他者評価での選択は、せっかく自分で「選択が出来る」という、与えられたチャンスを無駄にしてしまう、大変勿体無いことである。


選択肢、それ自体がそもそも無い、そんな経験をしているのであれば、自分で選ぶ事が出来る「選択肢」の有り難さは、身に沁みて分かと思う。


困窮によって、手持ち残金30円だとすると、スーパーで選べる食材の種類が、限りなく狭まる。
学歴が無い状態で、就ける職業の種類が大変狭まる。
会話可能な言語が限られるせいで、居住区域の選択肢が母国以外無い。


そもそもの「選択肢」というチャンスが無いことは、あらゆるシーンにもよって、誰しもが一度は経験しているハズ。
「あ、これは条件合わないから、無理だ」
そういう場面は生きていれば、幾度とあるだろう。

その上で、自分でせっかく選べるシーンなのに、「〇〇って言われてたから」と、自分から選択することを逃して、チャンスをさらに狭めていないだろうか。

それは凄くすごく、勿体無い事だと思う。


たまに、「自分の人生詰んだ」と言う人がいる。もう選択肢が尽きて、投了、というわけである。
果たして、本当に詰みなのか。
もしかしたら、思い込みによって、出来るかもしれない一手が見えていない事はないだろうか。

得てして人は、ネガティブに思考が凝り固まった時、決まった一点しか見えなくなり、「実はこの手もあったのに」ということになってしまうものだが、このゲームは本当に詰みだろうか。投了だろうか。


これは自戒でもある。

私も、年がら年中人生が面倒臭くなり、投了して終いにしてしまいたくなる。
別の手を考えることすら、面倒臭い。
そもそもの生命力が低い。


ただ、世間的に華々しい地位や活躍に恵まれないから、「詰み」とか思ってるなら、ジリ貧の負け戦を、敗走しながらもそこそこ楽しく生き延びる術は、ゴマンとある。
自分の身の丈に合って、ご機嫌に生きる術ってかなりある。

まずは自分に「選択肢」が、本気であり得ないか、ちょっと考えてもう一手、打ってみたら、結構いい感じに生きていられるのではないだろうか。

思い込みを一度、そうなのだろうかと疑って、「選択肢」を見出す。

チャンスって、そうやって増やしていくものじゃないかな、とは思うのだ。

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